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昨日、The Contenderのフィナーレを観ようとともってTVをつけたら、なんと、タイタニックがやっていました。あれ、おかしいぞ、ということで、時間表をチェックすると、なんと、先週の火曜日に既に放送済みで、見逃してしまいました。かなり悔しい!!それにしてもこちらアメリカのTVの仕組みって良くわからない。時差のために、国内で全国ネットの時間帯を統一するのが難しいのでしょうね。しかし、コンテンダーは毎週日曜日のはずじゃなかったのか。アプレンティスのフィナーレはちゃんと木曜日にやっていたのに・・・結局Sergio氏がチャンピオンになり、$1ミリオンを手にしたようです。こちらから最期の分の放送が見れます。
さて、アプレンティスのフィナーレですが、もう放送されてから2週間ほど経ってしまいました。左写真の女性が最終的に勝ち残りました。このフロリダ州出身の26歳の女性。名前をキャンドラさんといいます。この番組に出演する前は不動産屋で働いていたそうです。この人、番組の序盤では、それほど目立った存在ではありませんでしたが、中盤のU2などのPOPミュージシャンのCDオークションのプロジェクトあたりから頭角を現してきました。 エネルギッシュでアグレッシブ。それでいて、冷静で問題点を論理的に指摘し、責任の所在を明確に伝えます。何が必要とされているかを見定め、それを満たすためのビジョンを持ち、考え方が自立しているので、プロジェクトマネージャーを担当する時は、自分の考えを中心にプロジェクトを遂行させます。周りの意見に左右されたりしないので、行動に無駄がなく、その上、彼女が下す判断は決まって的を得たものばかりでした。 第1週では、Dannyという問題児について殆どの人が彼を首にすべきと答えるのに対し、彼女は彼をコントロールできなかったTodのデリゲーションの欠如と、Dannyの現場へ足を運ばなかったことを指摘しています。エピソード12では、車のカタログを一人で作ってしまうという、グラフィックデザインの才能を発揮し、エピソード14では、Tシャツの販売で、数が限 られているということを利用して、限定販売のコピーを前面に打ち出す戦略など、知性溢れるアイディアを持ち合わせています。 なによりも、最期の週でみせた、独断で突き進む力強さと、全くモチベーションのないこれまでの脱落者から選ばれたアシスタント達を引っ張ってゆくリーダーシップ、彼らに愛されていると言われて、思わず嬉し涙をみせる美しさなど、今回のコンテスタントの中では群を抜いた存在でした。 今回第三期のエピソードは、半分の挑戦者の学歴が高卒以下、半分が大学以上というブックスマート対ストリートスマートという構成で始まり、最期は高校中退のTanaさんと大学を卒業しているKandraさんの戦いになりました。どちらも女性で、これまでドナルド・トランプ氏に雇われた二人は男性でしたので、シーズンが始まった頃、次あたり女が来るだろうな、と予想していていたので、思っていた通りになりました。 ただ、この番組、欠点がいくつかあり、二つの組織に分かれて競争するのはいいのですが、その結果をどのように出しているのかを一切見せないため、裏で工作して、本当は勝った方を負けにするなどという「やらせ」がある可能性があります。おそらく、番組をある程度盛り上げるために、やらせはやっているのではないかな、と思います。そして、他の候補者のしょぼさを考えたとき、もしかするとあらかじめ彼女が勝ちやすいように筋書きが組まれていたのかもしれません。それを踏まえても、Kandraさんは十分魅力的に映しだされていました。 そして、最期に彼女が言った非常に興味深い言葉を紹介したいと思います。トランプ氏に学歴のアドバンテージはあると思っているか、と問われた際、「教育は過去の人の過ちを学ぶものです。そして私はそれを学んできた。」と、答えました。はっとさせられました。これは非常にいい言葉だと思います。日本人で高等教育をそのように捕らえることができる人は果たしているでしょうか?確かに、教えとは必要な知識のことであり、それは経験とも言い換えることができ、必要な経験とは必要でなかった経験、つまり失敗に支えられている。 彼女の将来が非常に楽しみです。 関係ないですが、"The Apprentice"でGoogle検索していたところ、イギリス版ザ・アプレンティスを発見しました!こっちはなんだか、硬いというかしっかりしているというか、コンテスタントがこれぞビジネスマンって感じですね。
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【2005/05/31 16:02】 人 (Humans) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
皆さんアメリカのテレビ事情はご存知でしょうか?こちらでは数年前から「リアリティTVショー(Reality TV Shows)」というジャンルの番組が大流行しています。これは、ドラマや映画などのフィクションに比べて、一般の人々の姿をそのまま映し出す手法を使った演出です。有名なもので、「フィア・ファクター(Fear Factor)」、「アメリカンアイドル(American Idol)」、「サバイバー(Survivor)」等があります。 フィア・ファクターは一般から参加者を募り、蜘蛛の群れの中に手を突っ込んだり、虫を食べたり、アクションスタントなどといった課題を与え、勝ち残ったカップル(男と女のペア)に賞金を与える、というもの。アメリカン・アイドルは、これも全米の一般人からオーディションをし、次のポップスターを掘り出そうという番組です。なんとなくイメージは沸いたかと思います。 日本でも「電波少年」や、題名は忘れましたが、随分と前ナインティ・ナインの司会でテレビ東京がモーニング娘結成のオーディションをやっていた番組も素人を題材にしていましたね。そういえばアメリカ横断ウルトラクイズもその部類ですね。もしかしてリアリティショーって日本発のアイディアだったりして。その辺り、機会があれば調べてみようと思います。 そして、アメリカのリアリティショーの殆どに共通していることが、「生き残り」をテーマにしていることです。一般から応募者を募り、競争させて誰が王座を勝ち取るか、といのと、そのプロセスを描き出します。挑戦者は大抵一つ屋根の下で、脱落するまで他の挑戦者達と同じ暮らしをします。当然友達もできるのですが、競争の過程で敵対関係になり、互いに侮蔑し合ったりします。そういったどろどろの人間関係が大勢の人に受けている大きな要因の一つのようです。 その中で、最近注目を集めているのがNBC局の「ザ・アプレンティス(The Apprentice)」と「ザ・コンテンダー(The Contender)」です。どちらも同じプロデューサーが手がけています。そして、ちょうど先週ザ・アプレンティスのFinal Winnerが決まりました。最後のEliminationは数時間の生中継で行うという大々的な取り上げようで、番組の盛り上がり様を示しています。 この番組はドナルド・トランプというビリオネヤーの不動産王が経営するトランプ財団の運営するプロジェクトマネージャーの地位を勝ち取るというもので、全米から応募者を募り、番組を始めるにあたって16人の候補者に絞ります。そして16週間かけて誰がビジネスリーダーとして優れているかのコンペティションを放送します。今回は3シーズン目で、今まで二人の実力者が実際にトランプ氏に雇われていて、つい先週その3人目が決まったというわけです。 競争する方法として、二つの組織(チーム)に別れ、各チームのプロジェクトマネージャーを一人ずつ決めます。そして、同種同業のプロジェクトをそれぞれ担当し、売り上げや企画の売り込みなどを競います。時には新しい種類のハンバーガーの売り上げ数を競ったり、リーバイスのカタログを作ったり、ペプシーコーラのボルトのデザインを手がけたりします。 この番組のおそらく最も視聴率の高いシーンが、毎週一人脱落者をきめる場面なのですが、負けた方のリーダーとその人が選んだ2〜3人のチームメンバーがボードルームに揃い、その中からトランプ氏が名指しで「君は首だ!(You're fired!)」と直接解雇の通達をするのです。これはさすがにかなりの緊張感が演出されています。最初これを観たとき、「何だこのおっさん、偉そうに!」という感情が沸き起こりましたが、その時は彼が世界に名を誇る億万長者だとは知りませんでした。ちなみにこの人自伝も多く出しています。 人を首にするというのはかなりネガティブな行為ですが、この番組を観てなかなか得られない教訓も発見できます。主には、人間関係においての事なのですが、プロジェクトマネージャーになるということは、人を動かすということで、人種、年齢、性別、生まれ育った場所などの社会的背景の違う立場からくる、視点、価値観の違い、バイオリズムの違い、感情の食い違いをまとめなければなりません。 プロジェクト遂行において、まず、ビジョンと方法論のない者達が真っ先に切り落とされ、先にはイニシアティブ、クリエイティブ、リーダーシップを持っているものが生き残ってゆきます。そして何よりも、これは個人的な印象ですが、人の扱い方、関係の持ち方を知っている者がどうやら最後まで生き残るようです。人をぞんざいに扱う者、仲間との協調性に欠ける者、コモンセンスに欠くもの、ねたみを招きその存在に気付かない者、感情をコントロールできない者はどうやら生き残っていません。 そして、先週、その過酷な競争を勝ち残った、凄く魅力的な女性がトランプ財団に加わることになりました。その話を次回にしようと思います。そして、来週ザ・コンテンダーのフィナーレですので、その話もできたらなあ、と思います。 リファレンス ロゴ引用 WWW.NBC.COM. The Apprentice. http://www.nbc.com/nbc/The_Apprentice/
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【2005/05/23 14:55】 娯 (Entertainment) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
前回、日本人の自信のなさを取り上げました。では、どうすれば、自信が付くようになるのかを考えた時、一般に自信のある人間というのは自分の能力、特に自分の優れているところを自覚していると思います。つまり、いわゆる「取り柄」というものを知っているのだと言えるのではないでしょうか。そこで、日本人の取り柄とは何でしょうか?
まず「日本人は〜」と、よく言われるステレオタイプ的な性質と、文化的特質を観てゆきたいと思います。 ・おとなしい、物静かである ・優しい ・自己主張をしない、争い事を避ける こういった側面は、個人的に日本人の冷静で知性に溢れる点を連想させられます。コミュニケーションにおいての消極性とは言い換えると、「空気を読む」などといった言葉で表現されるように、周囲に強調する姿勢が根底にあり、それは第一に観察力と推考する能力によって支えられていると思います。これは相手が自分を利用しないという信頼関係が前提にあり、ある意味ハイレベルなコミュニケーションだといえると思います。 しかし一方で、相手を尊重するがために我慢ばかりしていては、その同調する姿勢というのは結局、主体性の欠如と指摘されても致し方がありません。表では良い顔を振りまき陰では不平不満を口にしたり悪口を言ったりするのは、実は心の中で自己の重要性の欠如を感じている、つまり疎外感を持っている事に他ならず、それはコミュニケーション上の弱者的立場にいると言えるでしょう。 ですので、自分が満足する関係を保つには、相手を尊重する一方で自分の意見をしっかりと持ち、主張するときは主張するというスタンスを持つことができれば、知性ある奥行きのある人間性を表現できるのではないでしょうか。 ・手先の器用さ ・細かい気配り 日本の伝統芸術を観たときに一番印象に残る事の一つに、仕上げの丁寧さがあります。工芸品などもそうですが、水墨画や襖絵などの絵画においては、一つの線の細さが際立っています。そこから感じられることは細部への飽くなき探究心と小さなディテールへの配慮です。これは縄文時代から陶器を作り続けてきた血があるのではないでしょうか。指先を良く使う職の人はボケにくいなどど聞きますが、指先を使う作業とは脳の発達に影響があるのかもしれません。 実際、人類と他の動物を区別する上でネックになるのが、言語と道具の使用、二本足歩行とされていますが、この道具を使うというのは手先を使うわけで、これが人類の知能の発達を促進させたのかもしれません。逆にこの発達の過程を考えたとき、言語が使えたから道具を使うようになったと考えるよりは、道具を使うようになりその後言語を使うようになったと考える方が自然に感じます。なぜなら、言語の扱いの方がより複雑だし、確かゴリラかチンパンジーで簡単な道具を扱う種があったと思います(記憶が曖昧ですが)。 この日本人の器用さは、現在様々な分野で見ることができます。食文化では細かな作業を要する料理がたくさんありますよね。西洋人はお寿司など作れないし、箸は使えません。半導体や液晶などの技術も日本人の器用さと関係があるかもしれません。何よりも、言語において漢字というのは世界中の言語の中で一番複雑で、一文字の中にたくさんの画数を保有しています。つまり、文章そのものを観てもアルファベットの国々に比べると器用さ(細かさ)が表現されているのです。 ・多神教 日本は仏教や神道が主流だと観られてていますが、無宗教者の数を比べると世界で第一位なのではないでしょうか(確証データはありません)。現在、無くなった兵隊さんやサッカーの監督が神様扱いされているのをみると神の概念が世界の他の国と全く違っている、もしくは完全にそういった概念を持っていないように見受けられます。 神様にすがるということは生活する上で何か精神的支柱を求める時で、神様が必要ないというのは逆に言えば精神的に安定している、といえます。精神的スタビリティとそこから生まれる心の余裕が、たくさんの絶対者を容認する考え方、つまり多神教に繋がっている、といえるかもしれません。その心的ゆとりというのは生活が安定していることに支えられていると思います。 そして安全な安定した生活というのは誰もが持てるものではなく、それはかなり恵まれた環境にいるといえるでしょう。日本人は争い事を好まないと言われますが、言い換えれば、争い事をする必要がない、ともいえますね。争いをしないのかできないのかは定かではありませんが、野獣の世界とはもっともかけ離れた存在と言えるかもしれません。 ここまでで全体的に言えるのは日本人の知能の高さですね。実際スポーツ選手にしても世界で活躍している日本人に共通していることというのはクレバーさだったりしますよね。知能の発達というのは人類の歴史でもあります。ですから、スポーツでの身体能力や国力としての天然資源が不足しているからといって、特に引け目を感じる必要はないですね。そして、個人的に指先の器用さはその人の知性(認識の複雑性)と比例関係にあると観ています。日本人はとにかくその点で強い。これを前面に押し出して利用しない手は無いと思っています。
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【2005/05/21 18:01】 知 (Information) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
とても興味深い記事を発見しました!日本人女性を対象に、容姿の自己評価をリサーチしたそうです。
日本は全体的に、自分に対する評価が低い。外見的魅力に満足している人は、各国平均の37%に対し14%で、大きく下回った。「自分の外見を表すのにふさわしい言葉」として「かわいい」「美しい」を挙げた人は0%、「魅力的」もわずか2%だった。これはいったいどういうことでしょうか?まず考えられる要因として、日本人の謙虚さ、消極性、客観性があるように思います。 もともと、文化的背景として儒教が浸透している日本では、謙虚さや謙遜というのは人を評価する上で非常に重視されていますよね。(残念ながら中国、韓国のデータがなく、それらがあると本当に儒教が謙虚さに影響を与えているのかどうかがわかると思いますのですが)。さらに、日本特有の考え方で、「傲慢な人=和を乱す」的な捕らえ方があると思います。自己を誇大評価せず、主張を心の中にしまっておくというのは、組織の中で統制をとるための価値観として生まれたのかもしれません。 主張する者は集団の頭だけでよく、その他の者が主張しなければ和は乱れない。これは規律と秩序が最優先されてきた国のある種の習慣、生活の知恵なのではないでしょうか。やがてその謙虚さとその裏側にみえる人間的奥ゆかしさというのは、道徳の一部、人格を形成するための美徳の一要素になったように思います。 次に、自己評価の低さというのは行動の消極性とリンクしそうです。基本的に消極的になる、というのは潜在的に何かを恐れている時ですね。そして、消極的な人といのはまず周りの目を気にしますよね。これはどういうことかというと、その人はある共同体に属していて、その中で和を乱すことを恐れるわけですね。つまり、何らかの組織に精神的に依存していることを意味します。 これは僕自身の経験ですが、欧米人とグループで話し合いを持つとき、常に日本人はとにかく自分から話し出さない。彼らは周りの目を気にも留めず、バンバン自分達の感じたことや考え方を言い合います。他人との意見の違いをむしろ楽しんでいるかのようにさえ見えます。しかし、僕も含め日本人はそうはいかず、グループ内での意見や観方の対立に居心地の悪さを覚え、相手の出方を伺った上で目的や理想のずれがあるならば妥協案を織り交ぜながら自分の意見を言う。コミュニケエーションにおいてpassiveだといえるでしょう。 彼ら欧米人の積極性というのは精神的に対話している相手、又はその属する共同体に依存していない、「あなたと私は違います」という考え方が前提で、言い換えれば、「あなたの助けがなくても私は勝手にやっていきます」ということですね。私達日本人はどこかに助け合う精神が前提にあると思います。これは日本人が親切で優しいと呼ばれる所以でもありますね。欧米の価値観、個人のindependenceは、個人の自己責任が根底にあります。失敗も成功もその行動を起こしたその人の責任。従来の日本の終身雇用などに見られた、組織に守ってもらう、という考えは今も根強いのではないでしょうか。 そして、個人主義の競争社会では、もたもたしていると置いていかれるし、主張しなければ利用されるという危機感も自然に植えつけられます。よって、積極的にならざるを得ないという側面もあります。彼らにとって社会で認められるということは、自分からアピールしてゆくことでもあります。自分の欲望は誰かに叶えてもらうのではなくて、自分自身で全うする、という考え方です。会話の中にしろ何にしろactiveに行動する、というのはそのあたりからきているようにも思います。 よって結果、すべてが自己責任でリスク管理が個人に委ねられる環境で育てば、自然と人は自分の判断でやってきたことに自信を持つようになります。逆に言えば、常に重要な行動を誰かに決めてもらっていては自信はつかないですね。そして、彼ら、特に米国人には、内気でおどおどした態度というのは美学に反するようです。それは男性だけでなく女性にも言えることで、アメリカの女性は恋愛や性においてもかなり積極的で、ファッションでの肌の露出度においてもそれはいえます。 深夜のTVで、Girls Gone WildというビデオのCMでは、海のビーチで大勢の人前を女の子がカメラに向かって胸をさらけ出して「イェーイ!」となどとあっけらかんにやっています。ちなみにそれはそういうショットを集める企画のようで、本当に数え切れないほどの女の子が参加しています。 こういう行動は心理的な自信に裏づけされていなければできないのではないでしょうか。自分に自信のある人間は物事をネガティブに考える傾向が少なくなると思いますし、周りのネガティブなリアクションを想定していればそんなことはできないはずです。もしくは、ネガティブな反応に対しても、心の準備として、「あなたはあなた、私は私」と批判をはねつける精神的強さ、つまり自信を持っているといえます。 ここで注意したい点が、リサーチはセレブリティの様な容姿を持っているかとは聞いておらず、他人に比べてどうか、というのと自分の容姿に満足しているかどうかを聞いています。つまり、自分が際立って美しいとは思っていないが、それはそれで満足している、と回答していると判断できます。つまり、自分の容姿の平凡さを認めた上で、それを上回る魅力を総合的に観て確立できていれば、自然と自分自身を肯定的に捉えることができるし、その結果、「こんな顔だけど、私は自分に満足している。逆に、この顔がなければ今の自分は成立しない」、といえることができるのだと思うのです。自信とは欠点をも包括するものであったりしますよね。 一方で、常にポジティブに考える、というのは言い換えればOptimisticとも言うことができ、客観性に欠ける、とも言うことができると思います。これは、アメリカの国際政策に見て取れますね。京都議定書のサインをCO2排出量云々で拒否したり、国連の決議を無視してイラクに侵攻したりと、客観性に著しく欠けているように思います。これは自己主張が行過ぎた状態で自信過剰の裏返しですね。 ここに、自己評価が低いというのは客観性を保ち、冷静に自分を評価できているということもできると思います。そして、よく考えてみると、「他人よりも劣っているか」という問いで、客観が上手く作用していると、どこかに美貌の平均値はあるはずなので、相対的に両側が半々、50%になるはずです。しかし、結果は4人に1人が劣っていると思うと答えています。これでも、50%の2人に一人には程遠いのですが、他の国に比べると、客観性はダントツのようです。このあたりの日本人の知性に救いを感じます。 しかし、真実は常に主観と客観のせめぎ合いだとすれば、いったいそのバランスはどれが理想的なのでしょうか。行動を起こす上で、主観に偏りすぎているとバカにみえるし、客観に頼りすぎると、ネガティブにみえます。どのバランスがこれからの近代化を遂げ複雑化を増してゆく社会で、いい方向に進むか悪く作用するかは誰もわからないと思いますが、多少ばかげていても、時には楽観を保つことができるぐらいがいいのかぁ、と思ったりしますけれども。 今回の調査データで、常にどこかの共同体に属し誰かの助けを期待している消極的で自信のない日本人の姿が浮き彫りになったような気がします。話を単純化させると、自信のある人は積極的になるし、自信のない人は消極的になる。なぜ日本人に自信のない人が多いのかは共同体の庇護を期待しているからではないでしょうか。それは言い換えると、主体性の欠如なのかもしれません。その背景には、厳しい規律で秩序を形成してきた日本の文化があるように思います。同じ調査を男性に向けても同様の結果が出るのではないでしょうか。彼らに時間があればぜひやってもらいたいですね。 リファレンス 毎日新聞 日本女性「自分は他人より劣る」 4人に1人も 2005年5月7日
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【2005/05/15 12:01】 知 (Information) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
今更ながら「電車男」を読んだ(時代遅れで済みませんね!)。素直に楽しめた。その内容は出版化され、関連本がたくさん出て、漫画にもなり、現在映画化も進められている。もちろん、あの内容の全てが真実かどうかはわからない。もし全くの嘘であって一人の人間によって作り出されたものなら、それはそれでなおさら面白い。その男は尊敬するに値する究極のcrazyに違いないだろう。ストーリーはともかく、他のネットユーザーとのinteractionにおいて起こる自然さと偶然を演出するのは並大抵ではないからだ。
もし世の中に起こる目に見える現象というのは、それを引き起こすファクターの氷山の一角であれば、現在の日本という国を舞台に起こった電車男という現象は、その表面下で起こる様々な事象に支えられていなければならない。その事象は現在過去から引き継がれている日本特有のcustomであるに違いない。この現象を特徴づけるのは、2ちゃんねるという媒体、匿名性から来る曖昧さ、オタク文化というサブカルチャー、精神的に未熟な日本人男性像が挙げられる。 まずこの電車男という物語は、2ちゃんねるという巨大掲示板を通して世に排出されたわけだが、この2ちゃんねるが意味するところは何だろうか。これまでの2ちゃんねるは社会的弱者が集い陰口を言い合うという負の側面を負っていたように感じる。最近は覗いたこともないので事情は知らないが、一昔前は誹謗中傷が飛び交い、ある特定の個人や団体のイメージダウンをことごとく成功させていた。彼らに目をつけられた者は奈落の底に落とされる。そのくらいの存在感がかつてあった。 その力を裏付けていたのが誰でも気軽に書き込める匿名性で、社会的立場が問われずに意見を言えるというシステムである。もちろん個人名を記載はできるが誰もそんなことはせず大方はハンドルネームか無記名を使用する。投稿者のIPアドレスから作られるIDがハンドルネームの横に記載されるが、投稿者が接続し直すとそれも変わってしまうので、警察などが介入しない限り、個人の特定は不可能なのである。 こういった個人特定の難しさは2ちゃんねるに始まった事ではない。これは日本のメディアのあり方が引き継がれたといってもいい。新聞の記事がよい例で、欧米では記事一つをとっても記載者の氏名が表記される。一方で日本では現在、毎日新聞以外の新聞社は署名のないケースが殆どで、個人の意見が組織に埋没している状況だ。文責の所在がはっきりしていないという点が2ちゃんねると同じなのである。 これは日本という国で個人が自立し切れていない現状を物語っているのではないか。自立できない個人は組織に依存し、組織が責任を負う変わりに、個人はその組織という共同体の力を全面的に利用することができる。この構図は何か失態があればその集団の頭領が責任を取って切腹するというサムライ社会の秩序に似ている。2ちゃんねるに参加すれば、その巨大なコミュニティが作り出す世論をあたかも自分が作り出しているという感覚を得ることができるのだ。 次に挙げられる特徴として、匿名性がもたらす曖昧さがある。それにはまず責任の所在が挙げられる。時々2ちゃんねるで犯行声明を行った青年が逮捕されるというニュースを見る。これは責任が個人にあることを示す。しかし、この電車男の場合、著作権はどこにあるのかというと、2ちゃんねるにある。出版化や映画化などででる収益は責任者の西村博之氏にいくのである。これは青色発光ダイオード(LED)の発明で莫大な収益を得た日亜化学工業と発明者中村修二氏との関係に似ている。発明の対価は殆ど発明者ではなく、その人が属する組織に与えられる。平たく言うと日本ではピンはねがまかり通るのである。 その他の曖昧さとして、誰が言っているのか解らない、嘘か本当かわからない、ということがいえる。匿名なので誰が言っているのか解らないのは当然なのだが、時々それを利用して自作自演をする者が現れる。自分で発言したことについて、IDを変えて自分自身でコメントをつけるのだ。傍から見ていると、複数の人間がコミュニケーションをとっているように見えるが、実際は一人の人間が行っているに過ぎない。 そういった不確かさがあり、実際あのストーリーが本当だったかどうかは観るものは当然、当事者にもわからないし、いったいどれほどの数の人間がリアルタイムに参加していたのかも不明なのである。もしかしたらたった二人の人間が作り出した可能性も否定はできない。しかし、そんなことを気にしなければ、たくさんの人間と関わったという充実感を覚える事ができるのだ。 それでは、この2ちゃんねるという日本特有の媒体を利用するユーザーとはいったいどういう存在なのか。一言で言うと、オタクである。オタクはマニアや非社会性というconnotationを有する一方で、外に出ずに自宅に滞在しているというのが基本的な前提だ。この言葉は面白い言葉で、もともと「お宅」という二人称を指す尊敬語が転じたものだが、宅には元来住まいの意味も含まれているのが興味深い。 この自宅に滞在するという習慣は、戦国時代では人口の8割が農民という遠い祖先が農耕民族である日本人にとって切っても切れない関係がありそうだ。彼らは空いた時間さえあれば、農具を修理したり藁をもんだり草鞋を編むという習慣があった。これは長時間室内に座り続け指先を扱うという点において、ネットをするという行動と類似している。狩猟民族がルーツの欧米人は日本人に比べてじっとしているのが極端に苦手である。室内活動が中心のオタク文化というのは農耕民族をルーツにする日本人にとって必然的なものであったといえるのかもしれない。 そして、何よりも面白いのが電車男のメンタリティである。彼はヒロインを 暴力的な爺さんから守るという勇敢さを見せるのだが、彼女に告白する時に、「女の人にこんなにやさしくされたことがなかったから」と号泣してしまう。日本以外でこういうシチュエーションが受け入れられるのは到底考えられない。というのも、彼らは男の力強さを強調する傾向がある。その後、ヒロインは主人公をよしよしいい子いい子してあげているのだが、いったい何なんだこれは。酔っ払いの爺さんから守るという時点で実は勇敢でもなんでもないのだが、オタクたちの間ではこれは立派な賞賛に値する行為なのである。そして、現在の日本ではオタク層はかなり浸透し、そこから生まれるアニメや漫画は世界へ発信されている。 しかしこの貧弱な主人公像というのは最近始まったものではなくて、自虐的なキャラクターというのは戦後日本では数多く受け入れられてきた。文学の世界では太宰治、歌手では尾崎豊、最近のもので、アニメでは新世紀エヴァンゲリオンなどがある。サッカー選手でいえば、中村俊介選手がこれにあたるかもしれない。これらの人々に共通して言えるのは見る側の同情を誘いだす手法を使う点だ。私は弱い存在であなた方と一緒ですよ、ということを呼びかけ、それに呼応した人々の中で共同体ができる。つまり、弱さの一体感を演出するのである。 自称オタクの電車男はそれを地でいっているといえるだろう。しかし、弱さだけの人間をだれも愛するわけはなく、むしろ、その中にある美しさといったものがなければ、その魅力は成立しない。電車男の場合はそれが、誠意であり、やさしさであり、一途さであったのかもしれない。そして、そういった美しさとは縁を遠くした社会的底辺に存在するコミュニティの中から彼は生まれた。そこに電車男というヒロイズムが成り立つのではないか。
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【2005/05/10 17:15】 書 (Literature) | トラックバック(1) | コメント(2) | Clip!! ![]() |
Yahoo!NEWSの教師の不祥事というセクションのページで見つけた「学力急落、わいせつ教員急増」というリンクの社説で、子供の読解力低下を取り上げていました。
実際、文章の正しい理解力なくして、数学や科学の設問に対応できず、本や新聞を読むのも大儀になり、社会や世界への興味、理解が限定されてしまう。文科省は「(読解力低下の原因は)テレビ視聴時間増、読書減、コンピューターの浸透など、言語環境変化の影響では」と指摘した。気が付いた点をいくつか。 この社説では学力の低下の原因の一つとして語彙力、読解力の低下を挙げ、それを言語環境変化の影響と指摘しています。この環境変化の一つとして、テレビや漫画の浸透はもちろんそうですが、「良質の文章が減った」ことが見落としがちになっているのではないでしょうか。最近のニュース記事や社説やエッセイなどでは漢字とひらがなの比率では圧倒的にひらがなの方が多い。逆に和製英語などの外来語が漢字にとって換わっているのかというとそうでもない。少ない文字数で数多くの概念をホールドする名詞の数が極端に減っている印象を受けます。 誌上での文字のサイズは大きくなり、私をわたしと掲載したり、筆力と情報力のない掲載者側の原稿文字数を埋めるための戦略とさえ感じます。天声人語は一時期受験生の模範とされたが、最近のものはめっきり質が落ちてしまった。一言で言ってしまえば、読ませない、力強さがない様に感じます。そこには信念と主体性に欠く日本人像が浮かび上がる。読む価値のないものが溢れる中で、読む人が少なくなるのは当然の結果ではないでしょうか。部下の欠点を指摘する上司が自分の欠点をさらけ出す様に、今の現状は知識階層の学力低下が反映された結果といえるのかもしれない。 もう一つ、学力が低下した一方で、上昇した分野があるのではないでしょうか。スポーツ、ゲームやアニメなどのエンタテイメント、ファッションや芸術などです。何れも文字とは読解力とは関わりの少ない、いわば対極に位置するような分野です。日本のアニメや漫画は世界中に広まり、アテネ五輪では史上最多のメダル数を叩き出し、イチローや中田英といった世界で通用するアスリートが登場し、ゲーム機のシェアは世界では日本製のものが殆どです。芸術の分野では千住博や村上隆など日本人アーティストの活躍が目立ってきました。「リング2」などの映画はハリウッドにも進出しています。 これらに共通していえるのは、言語を取り扱う左脳の分野とは対象の右脳を主に使う分野だということです。こいった分野ではイマジネーションや空間認識力、全体を総括する力が必要になります。また、情報認識のプロセスは視覚だけではなく、聴覚もある。つまり、新聞ではなくTVなどで情報を得るようになったということは聴覚の発達を促す可能性もある。その延長上には音楽の分野での発展が期待できるかもしれない。 学力だけが人間の価値を定めるものではない。かといって、それを軽視しているとこれからのグローバルな情報化社会で、経済を知的財産に依存していこうとする日本は生き抜いていけない。しかしまた逆に右脳を使った柔軟な発想力がなければ新しいイノベーションは期待できない。もし、どちらも大事だということであれば、能力の分化の徹底を試みたらどうだろうか、と思います。 平均的になんでもこなせるゼネラリストを育てるのを止めて各分野でのスペシャリストを育てる教育をすればいいのではないでしょうか。教養がなくてもスポーツや絵画の能力があればそれを徹底して伸ばせばいいと思います。これからの日本は各分野でのスペシャリストの集団になって足りないところはそれぞれ補完し合ってゆけばいいのではないでしょうか。 リファレンス 東奥日報 社説 「学力急落、わいせつ教員急増」 2004年12月16日
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【2005/05/08 17:54】 意 (Opinion) | トラックバック(1) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
面白い記事を発見!<性体験ある高校生>1割がクラミジア感染 厚労省調査という記事なのですが、クラミジアがどうのこうのというよりとても興味深い事実が発覚。
性交渉の経験者は男子高生が全体の31.1%、女子高生は43.6%。このうちクラミジアに感染していたのは男子6.7%、女子13.1%で、全体では10.6%に達した。年齢別では16歳の女子高生が17.3%で最も高い。欧米の女子高生の感染率は1〜4%で、日本は際立って高いという。この部分ですが、なんと女の子の方が性体験のパーセンテージが高い!つまり、今日の日本では女性の方が性に関しては積極的なのですね。まさか昔からそうなのでしょうか?これは援助交際とか関係してるのかな。しかし、女性はおしとやかに振る舞い、恋愛に関しては受身で男がいつも女を泣かせるなんて図式はもはや存在しない。女が男をふりまわす時代なのだ。なはは、おもしろい。こういうデータ他にもないかな。外国と比較できたら面白いな。 リファレンス 玉木達也 毎日新聞 「<性体験ある高校生>1割がクラミジア感染 厚労省調査」 2005年5月4日
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【2005/05/07 13:10】 聞 (News) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
Vi. 「基礎技能」 に関して書くのを忘れていました(笑)。これは、小林氏は「流行の中に不易を求める」と表現していて、移り行く時代の中でも基本的な技能は変わらない、と説明しています。流れの速い今、5年に一度はビジネススタイルを見直さなければならない、とドラッカーは言っているのですが、一方で、表面的なスタイルは変わっても根源的な技術は変わらないとも言っています。
例えば、コンピューターグラフィックの世界は、最新技術が次から次へと開発され、CGクリエイター達はその提供された高度なプログラムを1年に1度、いや半年に一度は覚えなおさないといけない。そこで問題になってくるのが、CGクリエイター自身の中に変わらぬ技術が存在しているかということになります。例えば実写のように見えるCGを造るのに、今は5年前の10分の1の時間とコストで製作可能です。 以前はリアルだというだけでびっくりされていたのが、今はできて当然とされています。もし、作られた映像の中に、リアルに加えてプラスαの何かがなければ、これからは通用しない。それはオリジナルな色彩美であったり、キャラクターの魅力であったりするのだと思います。言い換えれば、最新のコンピュータを使わなくても、それなりにいいものは提供できるということです。つまり、「移り行く情報に依存しないサービスを作り出す技術」を持つ必要がある、というとでしょうか。
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【2005/05/06 21:13】 能 (Ability) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
前回、P・F・ドラッカーという人が極めて強い先見力をもっている、そして、「未来を読みきる力 ドラッカーとの対話」という本で小林薫氏は先見力の秘密を分析していると紹介しました。今回はその核を為す6つのファクターについて見ていこうと思います。
i. マクロとミクロ i. 「マクロとミクロ」 - この本ではドラッカーがコンサルティングでアメリカのGMやIBMなどの大企業から日本の百貨店などを相手にしている例を挙げ、大きな大局観から、現場の細部までの視野持っている、としています。ここで注意しておきたいのが、ドラッカーは大きな局面と小さな局面、両方でのソリューションを持ち合わせている、という点です。そして、小林氏はマクロ=経済、ミクロ=経営と表現しています(これについては補足説明が本文中にありません)。だとすると、これは拡大解釈になりますが、経済という学問的に企業の運営をセオリーで捕らえる、ということと、経営というそのセオリーに則って実際に現場で運営、実践する、という関係があるといえるのではないでしょうか。つまり、理論と実践をバランスよく兼ね備えること、といえるでしょう。 ii. 「歴史知識」 − ドラッカーの書いた記事一つをとっても必ず歴史への言及があるそうです。彼は現在の「肉体労働社会から知識情報社会への変動期」を「断絶の時代」と呼んでいるのですが、こういった社会の変化は何百年ごとに起こってきたのだそうです。彼は、ヨーロッパ、アジア、アメリカの歴史に精通していたそうです。確かに、次に何が起こるかを知るためには過去に何が起こってきたかを知る必要があると思います。鶏が1ヶ月前までは毎朝コケコッコーと鳴いていたとして、最近は鳴かなくなったとしたら、何かが起こっている、もしくは起こり得ると考えるのが普通ですね。マクロとミクロが現状把握だとしたら、歴史認識は過去の把握。この二つの「現状」と「過去」をもって初めて「未来」を導き出すことができる、というのは言われてみれば当然かもしれません。ただし、これだけでは次に何が起こりえるかを想像し、言い当てるのは容易ではないと思います。 iii. 「カトリコス(普遍)的思考と観察」 − アメリカの学者(経済学、政治学、経営学など)は200年の深さでその国の社会に限定してものごとをみて判断しようとする、とこの本では述べ、もっとグローバルな視野が必要だとしています。たしかに、視野が広くなると、物事を判断するために掛け合わせるファクターが増える訳ですから、プラスになることには間違いありません。例えば、天気予報などが解り易い例だと思うのですが、あれは人工衛星という俯瞰して自国以外の領域からの天候の流れを把握できて初めてできるもので、自国の領空を下から眺めているだけでは到底台風の動きを分析して予報することなど不可能でしょうね。(天気予報はよく外れますけれども。(笑)) ここまできて平たく言ってしまえば、「広く、深く見識を持つことで先見性は養われる、」ということだと思うのですが、しかしかといって、天気予報で言えば、天候の流れを引き出す本質的なファクター(気圧の流れなど)への認識や、経済で言えば、資本の流れへの本質的な認識(それが何なのか僕は知りません!)がなければ、単に持っている広い視野というのは、先に起こることを予測するには意味を持ってこないのではないでしょうか。つまり、流れを構成しているファクターの本質的な意味合いを知る必要があると思います。 iV. 「能力の多角性」 - ドラッカーのさまざまな職歴を引き合いに出し、マルチ人間の重要性を説いています。彼がオーストリアで学んだのは、心理学、経営学、政治学と多岐にわたり、彼が経た職はというと、イギリスで、マーシャント・バンカー、投資家、ジャーナリスト、アメリカでは大学教授、企業コンサルタント、作家、といったものです。ちなみに趣味は日本美術だそうです。こういった、多様性のある経験は、幅広い視野をもたらし、先見への糧となっているはずです。そして、この経験こそが先ほど述べた、「流れを構成する本質的なファクターの認識」に繋がっているのではないでしょうか。ドラッカーはそれらを体で体感してきたといえるでしょう。 v. 「思考の統合力」 - 残念ながらこの本では多角的な能力がもたらす多様性のある経験と知識をどのようにして統合すかは書かれておりません。ただ、ドラッカーの中ではこれらが上手くまとまって先見性を豊かにしている、と述べています。おそらく、彼のようにそこまで幅広くそして深く経験を積めば自動的に頭の中で統合できるものなのでしょう。ただし、ivで述べた、本質的なものを見抜く力、洞察力がなければ知識を統合しても、間違った浅はかな思考が生まれるだけで、予想はことごとく外れるのではないでしょうか。 ちなみにこの本では洞察力については前章(関係ないところ)で、アナロジー(比喩)の上手さが一つある、としています。何かを説明するときに巧みにアナロジーを使うそうです。例えばドラッカーは、組織のあり方を、指揮者の指示と総譜に従うオーケストラ型とアドリブで個人がその時々の局面をリード・打破していくジャズ型と表現したりします。それから、他の箇所でドラッカーを観察する人、とも呼んでいます。これは個人的な見解ですが、洞察力に秀でた人間というのは、まず、観察を大事にします。 これは紹介するのは恥ずかしい例ですが、僕は昔ゲームセンターで遊んでいたことがありました。その頃、対戦型のサッカーゲームに夢中だったのですが、僕や他の人がプレイ中ずーっと傍らで見ている人がいました。そして時々プレイしてはまた、しばらくは観戦を続けていました。何日か経った後、同じゲームセンターでその人を見つけて勝負してみたのですが、十回ほど挑戦して一度も勝てなかったのを憶えています。他の挑戦者達も同様でした。彼はおそらく、遠くから多くの数のゲームを眺めることで、我々が気づかない勝利のパターンを見つけ出したのだと思います。注意したいのが、彼はただ単に観察に徹していたのではなくて、時々プレイしていました。多分彼の中での勝つ方法論を整理して、トライアンドエラーを繰り返していたのだと思います。そして、いつの日か、最強の黄金律を手に入れた。 実際世の中にいる勝ち組と呼ばれている人たちは、そう呼ばれるためのノウハウをそうやって築いていったのかもしれまん。 追って小林氏が観る先見力を構成する次のファクターを紹介していきます。
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【2005/05/05 20:30】 能 (Ability) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
世の中には物事を予見して言い当てる人がいます。ノストラダムスのように最大公約数的に曖昧に表現し解釈を誰かが後付けして成立するようなものではなく、その時の社会情勢を的確に把握しその動きと流れを見定め、次に起こり得ることを的中させる者。ご存知の方も多いとは思いますが、社会学者・経営学者で有名なピーター・F・ドラッカーもその内のひとりです。
1906年オーストリアに生まれた彼はそこで教養を身につけ、イギリスでさまざまな職を経、30歳でアメリカに渡り、ニューヨーク大学で経営学を20年以上教えています。GMやIBMといった世界でも有数の大企業のコンサルタントをし、カリフォルニアのUCLAで日本近代美術史も教えています。30以上の著書の多くは20ヶ国以上で翻訳され出版されています。モダンマネジメントの方法論を開発した第一人者で、ナチズムの出現やソ連の崩壊はもとより、現在のIT革命とグローバル化の到来は30年以上も前から告げています。ちなみに現在の大変革期を「断絶の時代」と呼び2015年までには終わるとしています。 実をいうと、先日村上龍さんの先見力に衝撃を受けてそういう能力に関する本を探していたところ、いきなりその分野では神様と呼ばれているような人を見つけてしまいました。前々から名前はちらほら聞いたことがありましたが、その著書はもちろん当然何をしてる人なのか全く知る由もなく、今回彼の著書ではないのですが、彼と彼の考え方を解り易く解説した本、「ドラッカーとの対話 未来を読みきる力」(著:小林薫) それで、その本に「先見力6つの源泉」というのが紹介されていましたので取り上げてみようと思います。これは小林氏がドラッカーという人となりを観察することから得た彼の考え方です。それを僕なりにまとめてみました。 i. マクロとミクロ (理論と実践) ii. 歴史知識 iii.カトリコス(普遍性)的思考と観察 iv. 能力の多角性 v. 思考の統合力 vi. 基礎技能 上記が先見に必要になってくる能力で、そのベースになっている能力と性質が、 A.記憶力 B.独自の思考過程 − 自力で考え抜く姿勢, thinking through C.探求力 - 根源への回帰、追撃, thinking aloud, D.内向性と外向性の均衡 E.直観型と感覚型の均衡 F.思考優位と感情劣位 他、必要となってくる情報を整理する行為 a.情報収集とそも持つ意味の汲み取り b.新しいファクターの組み合わせの見定め c.アナロジー的思考 d.過去事例の検証 としています。個々の詳細説明を次回にしてゆきたいと思います。 リファレンス 小林薫「ドラッカーとの対話 未来を読みきる力」徳間書店 2001年
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【2005/05/03 11:27】 能 (Ability) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
最近、英字ばかり読んでいたものですから日本の活字が妙に恋しくなって、BOOK OFFに立ち寄ってみました。そこで何気に手にした「奇跡的なカタルシス フィジカル・インテンシティII」 (著:村上龍)
新しい生産活動は高度な技術と知識に支えたれたものになるだろう。国民全部がスペシャリストになれるわけがない。スペシャリストになるためには長い訓練が必要であり、そのためのコストにしてもすべての人が負えるものではない。 この本は、サッカーの中田英寿選手のイタリアのプロリーグ、セリエAでの活躍を中心に追っていくエッセイで、日本と欧州のサッカースタイルやレベルの違いを指摘しながら、同時に日本社会のあり様を著者の視点で語られています。何とこの本、今から5年前、2000年に初版が発行されています。この頃著者は既に、日本社会での個人と組織のあり方がどのようになっていくのかを見抜いています。それを日本サッカーのあり方を通して指摘していて、今僕がようやく気が付いていたことでもあったので、これにはびびらざるを得ませんでした。 日本人選手は必ず慌てる。ボールを速く自分から離したがっているように見える。まるで速く仕事を終えてその場から消えたがっているように見えるのだ。 p22 この他に引用しきれないほど、日本という国のあり方が述べられています。彼も日本という国が世界の中でどう認識されているのかを見つめ、また、彼自身がどのようにあるべきなのかを考えてきた、というのがひしひしと伝わってきます。 全体としてこの本から伝わってくるメッセージは彼のスポーツを観戦することへの喜びなのですが、従来の組織偏重の全体主義を離れ、個人が己の欲求を追及するべきだという欧米の価値観、つまり個人主義の立場が色濃く出ています。彼はそれがいいか悪いかは解らないとしているのですが、古い日本の体制への批判的なコメントからもどちらを選択すべきかという彼の意思表明は明らかです。 冒頭の引用に関して、著者はコスト面から階層の溝が深まる、としていますが、個人的に思うのは、ITというものがもたらす恩恵の一つとして、情報の均等化があると思います。今や、専門的な情報がネット上に公開されいて、誰でもアクセス可能です。アメリカでは図書館の本をデータベース化し、出版された新聞や雑誌などをネットから検索・閲覧できる仕組みを作っている。そして大学などでは、身体上や経済面でハンデのある人向けに自宅から授業が受けられるようなオンラインの講義も増えてきている。 もし、これからの社会が情報社会になるとして、プログラマーや、医者、法律家などといった多額の自己投資と知の技術が要求される職業が階層の上部を占めるのならば、このITによる情報機会均等化は階層の溝を埋める可能性もある。つまり、競争のスタート地点に立てない階層がでてくるというよりかは、むしろ、誰でもスタート地点に立てる代わりに、後は個々の実力勝負、という時代なのだと思う。 インド人で自宅に滞在しながらアメリカの会社のソフト開発プロジェクトに携わるという話を聞いたことがあります。このようにどこにいたってチャンスは誰にでもある。ITはそれを可能にする。これからのグローバル社会では、よりよい環境を求めて組織に属さずにフリーランスで活動していくような人が増える傾向が強まると思います。経済的バックグラウンドを問わない個々の実力が問われる本当の意味での淘汰の時代がきたのかもしれません。 この著者のほかの作品を読んで、とりわけ文学的に優れているかどうかは解りませんが、彼のような先見力は幅広い知識や洞察力に支えられているのだとしたら、彼の著書、特にエッセイは、ビジョンを見出そうとするこれからの日本人にとって非常に価値があるものかもしれません。 リファレンス 村上 龍 「奇跡的なカタルシス フィジカル・インテンシティII」 知恵の森文庫 2000年
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【2005/05/01 18:08】 書 (Literature) | トラックバック(0) | コメント(0) | Clip!! ![]() |
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